昭和四十五年一月三十一日 朝の御理解
X 御理解第七十九節 「商売をするなら、買い場、売り場というて、もとをしこむと所と売り先とを大事にせよ。人が口銭を十銭かけるものなら八銭かけよ。目先は二銭損のようでも、安うすれば数が売れるから、やはりその方が得じゃ。体はちびるものでないから働くがよい。」
聞かせて頂いただけでも、読ませて頂いただけでも、すぐそうだと合点のいく御理解ですねえ。そりゃ、もうそうどころじゃないと、すぐ思う。ところが、実際実行に移すとゆうことになると、なかなか難しいことだと思いますね。間違いなしに良い品物を安う売るとか、又仕入先を大事にし、又売り先大事にするなら、もう確かにその商売は繁盛するですねえ。それは、言われなくても、目先は二銭損のごたるけれども、数がよけい売れるとゆうことも、理の当然です。
ところがなかなか、その二銭安うすることが出来ん。仕入先を叩くことは知っているけれども、大事にするとうゆうことはようしません。売り場でも同じこと。いかにもお客様本位と看板には上げておっても、結局はお客様本位ではなくて、やはり自分本位であり、お店本位であるとゆうのが普通ではないでしょうかね。
ですから、ここんところが垢抜けして、スッと出来たらですねえ、これは信心が無くても絶対繁盛していますよ。繁盛の原則です。
ところが実際は出来ない。信心して神様のおかげを頂いて、他所が十銭儲かるところなら十一銭を十二銭儲からせてもらう(笑)ことが、おかげのように思うておる人が、信心者の中にでも多いのじゃないでしょうかねえ。
けれども、それを伝える人、例えば教祖様が、これはお商売する人に下さった御理解だと思いますがねえ。伝える人金光大神が、それを伝えられるとゆうことになるとですねえ、それがなんと申しますかねえ、鶴の一声とでも申しましょうか、やっぱおかげを受けたんでしょうねえ。
まあだ戦争の前の頃、大連が日本の領地下にあった時です、大連に松山とゆう大変お徳を受けられた先生がおられました。終戦と同時に引き上げられて、岡山で布教になられましたが、引き上げて帰って来られた時には、もう既に教会が出来ておったというだけを思うても、やはりお徳を受ておられた方だと思います。その先生の所で総代をしておる方で、熱心に一家を挙げてよく信心をする。
ところが、その何の商売をやってもうまくいかん。それで、松山先生もこれだけ熱心に信心が(笑)出来るのにおかげ頂かんはずはないがと思われるけれども、おかげが現れてこん。
それで、ある御本部参拝の時に、まあだ三代金光様御在世の頃ですから三代金光様《に》お取次を願われた。そしたら〔三代〕金光様が、もうそれこそ一言下におっしゃたことはですねえ、「こうすればおかげになると知りながら、こうせんからおかげになりません。」と、おっしゃった。「こうすればおかげになると、例えば教えを頂いて、又知ってもおるけれども、そうせんからおかげになりません。」と、おっしゃった。
まあ、考えてみますと今日の七十九節と同じことでですねえ。そうどころじゃないです。そうどころじゃないけれども、なかなか出来ん。さあ、そこが鶴の一声ですねえ。お徳を受けられた方のお言葉を、そのまま帰られて、その総代さんと家族の者に、それを言い渡された。
もう、それこそ、それこそ心機一転でしょうねえ。ここをこう改まれとか、ここをこうすればおかげになると、知っておった事を本気でその事に取り組まれた。もうまたたく間に、お店が繁盛の一途を辿ったとゆう、お話を聞いたことがあります。
なかなか、それが出来そうで出来ません。おかげ《を》頂きたい〔と〕、おかげ頂きたいなら、おかげを頂く道を歩かじゃこて。そのおかげを頂く道を歩かずしてから、「おかげを下さい、おかげを下さい」と、言うておってもね。「商売繁盛さして下さい、商売繁盛さして下さい」と、言うておっても、教祖様はこのように教えておって下さるから、その気にならせて頂くとゆう、私はね、そこから本当の金光様の御信心は有り難くなってくるのであり、頂けてくるんだと、こう思うんです。
「はあ、もっともなこと、その通りだと、先生が言いなさる通り」と。「ばってん、なかなか〔先生が〕言いなさる通りにはいかん」と、こう言う。
帰って正札の入れ直しとゆう位にですね、私は心機一転するおかげを受けることがね、これは信心が無くても、例えばこれを実行しておる人があります。本当の繁盛しておる店は必ずそうです。良い品物をどこよりも安く売ると、体はちびるもんじゃないから一生懸命働くと。
そこで、私どもの場合はですね、なかなかそうゆう気が出来ませんから、これはおかげを受けるとゆうことにはですよ、こうすればおかげになるとゆうことを合点がいっても、なかなか出来ません。そこでね、私どもは信心を頂かなきゃならんのです。信心を頂かなきゃならん。
昨日、部落〔合楽〕の田中さんです、まあ、あそこに参っておられますが、毎日ああして熱心にお参りなさいます。段々おかげを頂いて、もうあらゆる面にも段々おかげを受けてこられた。なかなかお仕事がお仕事ですから、御主人が大きな事業をやっておられますから、その事のお繰り合わせも段々願うておいでられる。
昨日、お夢を頂かれたと言う。『大きな自家用車だそうですね、それにお米がいっぱい積んである。事実田中さんは、自動車の運転免許を持っておられるんですけれども、その運転免許の切り換えの時に切り換えてないから、もう切れている。いわゆる運転免許は持っとるけれども、その運転免許は切れとるから、もう一遍切り換えに行かなきゃいけん。夢の中でもそこのところが表れてきておられる。自分は運転免許を持たんから、自動車にお米がいっぱい積んであるけれども、これを綱引いちから引っぱって(笑)行かじゃこて、とゆうところをお夢頂いた。』そら、大変な有り難いおかげなんだけれど、これじゃいけませんね。
「自動車とゆうことは合楽なら、合楽とゆう信心と言うか、お徳の車の中にある訳だ。中には、もう一切がままになろうとゆうお米がいっぱい積んであるのだ。そこで、例えば自力というか、自分の力というか、その綱一本でそれを引っぱて行こうとゆうようなことをやめて、もう一遍再度、いわゆる運転免許を取らせて頂いたら、もう楽に行けれるおかげを受けられるんですから。兎に角、免許皆伝と言われるところ迄、ひとつ信心を進めなさい」て、私が<言った>。
合楽の信心の免許皆伝てどうゆうことかと。どうでしょうか皆さん、もう十年参っとるから免許皆伝、二十年続けとるからとゆうて、そんなら免許皆伝じゃない。
例えば、今日のこの七十九節は、繰り返しいつも頂いておりますが、そんなら繰り返し頂いておっても、その事が出来ていないのです。これは、商売人だけの事じゃありませんよね。全ての点がそうです。やっぱ、こうゆう御教えが色々あります。例えば、「陰で人を助けよ」と、おっしゃるような御教えがありますけれどね。
七十七節、「人の悪いことを、よう言う者がある。そこにもしおったら、なるたけ逃げよ。陰で人を助けよ」と。なかなか難しいことです。けれども信心する者は、そうあれと教えて下さったんだけれども、なかなか出来ません。
例えば、いわゆる七十九節も同じこと。信心させて頂く者は、それが本当なんだ。これは信心をせんでもそうですけれども、信心があるならなおさら、そうでなからなければならんのだけれども、そうではないと。
だから、例えばそうゆう一事(いちじ)でもですねえ、本当にそれをそうだと、思い込ませてもろうて、そこのところが行じられていくならば、おかげを受けますですね。
私、これは、江口の日吉さんですたい、日吉さんのお母さん姉妹(きょうだい)の事を、もう以前でしたけど、江口から参って来なさる人が四、五人で婦人の方達が参ってきました。それで、「あなた、お宅の部落には日吉さんちゅう方がおってから、姉妹(きょうだい)で参って来なさるですよ」ち、言うてから「はあ、もう、あの人達の参りよんなさること聞いてから、参って来ました」と、こう言うのです。
もう、その人達が言われることがですねえ、「もう、私は感心しとります、あの姉妹(きょうだい)には。」と、言うて話されるのに、「いろんな婦人が集まると、やっぱりかしましいですよね。もう、それがなにかというと人の悪口やら、陰口ばかりなんです。そげな悪口の時にですね、この頃私どんが、気が付かせて頂いたんですけれども、いつの間にかちゃんと、もう日吉さん姉妹(きょうだい)がおらんごとならっしゃち。どうしたこつじゃろうかと思うてから、気を付けておられますと、人の悪口を言いだしたら必ずそこにおらんごとならしゃる。しかも姉妹(きょうだい)連れで。
それで、聞かせて頂いたら、金光様の信心をさせて頂いて、初めてお参りしてから聞いた御理解が、この御理解じゃったち。「人の悪口を言う者(もん)がおったら、そこを逃げよ」ち。勿論、陰口を言うちゃいけん。だから、「ほかん事は出来んけん、これだけは私どん実行しよる」と言わっしゃた。もう本当、村内の者(もん)がびっくりしとります。」ち、言うてから参って来た婦人の方達が言うんですよね。
現在もやはり続けておられることでありましょうがです、そうゆう例えば、本当に簡単な事だけれども行じられない。人の悪口を言いよるなら、かえって利き耳を立てたり、本当に人の悪口を言いよると、自分もかたって悪口を言い、そうゆう例えば人間は、そうゆうようなものを持っておるようです。
けれどもね、それではおかげは受けられん。「陰で人を助けよ」と。例えば、この御理解でも、七十九節でも、やっぱ同じことが言えると思うのです。この世の中、ほんなことそうどころじゃないと聞きゃ分かるんだ。分かるけれども、それが実行出来ない。それでも、おかげは頂きたい。商売をさせて頂くでも、商売の繁盛のおかげを頂きたいなら、こうゆう心がけになれよ、と言うて下さるけれども、そうじゃあない。十銭のものが十一銭で売れりゃあ、それをおかげだとこう思うようなこと。それでは、おかげは受けられませんね。
ところで私達凡夫はですね、それこそ人の悪口言いよるなら利き耳立てたいごたる内容しか持たない。人が、十銭儲かるものは十二銭儲かるのがおかげのように思う。あんまり、よか品物じゃないけれども、まあそれが売れていったら、はあ、よかった。あげなつが売れちから(笑)とゆうような、その、まあ汚い商売人根性が、そうゆう時に出るようなことでは、本当の商売で繁盛することは出来ない。まあ、私達がそのよか見本でした。とうとう商売で繁盛は出来なかった。もう、そんなふうに思うとる<訳です>。
そこでですね、私が思うです。本当に信心して、いろいろおかげを頂かなければならんと。田中さんのお夢の中に、運転免許は持っとる、再度の交付を受ければ、すぐもらえる。けれども、それをもらおうとはせずに、自分の力で引っぱって行こうとする。免許を受けなさい。金光様の御信心で言う、いわば免許皆伝とはどうゆうことかと。
皆さん、どうゆうことだと思いますか。天地の大恩恵とでも申しましょうかね。天地の御恩徳の中に、お互いがあることは、誰でも知っておるし、誰でも話を聞けば、なる程、そうだと分かります。
天地の大恩、もう生きとし生けるもの、天地の大恩恵の中にあらなければおかげ《が》受けられないことは、よく皆んなが分かっておる。信心させて頂いて、天地の大恩を聞けば聞く程、なおさらよく分かる。
私は、金光様の御信心とはですね、そこ迄《は》世界中の氏子におかげはやってあるとゆうおかげであって、それから先が、金光様の御信心だと思うのですよ。その、御恩恵に対し奉ってね、報いようと言うことなんです、信心とは。天地の御恩恵を分かるとゆうだけではなくて、私はお道の信心はね、その天地の御恩恵に対しまして、それこそ何万分の一の事も出来はしないけれども、いわゆるじっとしちゃおられん。その御恩恵に報い奉らせてもらおうとゆう生活。そうゆう生き方。私は、ここんところが、ひとつ本気で分からなければいけないと思うのです。
その天地の御恩恵、御恩徳を、まあ、あらゆる角度から、特に甘木の初代なんかその事だけを、もうそれこそ、その事だけを説かれたと言うてもよい位に、天地の大恩をお説きになったそうですねえ。
ですから、ひとすくいの水でも、一粒のお米でも、それをお粗末にしちゃ天地に対して相済まんと。そこから、あのような甘木の信心体勢が出来た訳です。〔信心〕姿勢がですね。
それを繰り返し繰り返し説かれていくうちにです、やっぱりそこんところ《を》皆んなが分かってきた。だから、その天地の御恩恵のものを、粗末にしてはならないとゆうだけではなくてです、それを大事にする。大事にするだけではない、それに対して報いるとゆうことが、御礼八分といったような言葉になって表れてきたのじゃないでしょうかね。
信心の、例えば祈りの内容とゆうものは、「お願い、お詫び、お礼」とゆうように、三つがあげられております。正(まさ)しくそうです。願わなければおられん事ばっかり、と言うて自分自身を振り返ってみると、お詫びしなければならん事ばっかり。それでも、願わなければおられないとゆう切実なものがある。
そこんところを、甘木ではですねえ、御礼(おんれい)八分とゆうふうに教えておられる。御礼(おんれい)、御礼(おんれい)、神様に篤う御礼(おんれい)を申し上げんな〔ならん〕、神様に篤う御礼(おんれい)、もうその篤う御礼(おんれい)とゆう、それがもう、なんともかんとも言えん響きを持って頂いたと、甘木の御信者さん方は言うておられますね。そうゆうことがです、いわゆる天地に対し奉るところの報恩。いわゆる、神恩報謝の生活になってくるのです。
そこでですよ、そこで七十九節を頂いてきたら、どうゆうことになるでしょか。本当に神恩報謝の意味を込めて、その事が分かって、本当にお客様を大事にしなければおられない。仕入先を大事にしなければおられない。とてもとても人が十銭儲かるのならば、八銭儲からして頂くとゆうことをです、神様へのお礼と思うて、これは、もう自然にそれが出来てくる〔ところの〕おかげ。
次の、やはり数が余計売れるから、それの方が得だとおしゃっておられることは、もうどうゆうことかと言うとね、おかげおかげとゆうその、おかげを頂きたい氏子に対する、これはお言葉だと思うんです。そげん言わなきゃ実行せん。けれども、その天地の大恩が本当に分からせてもろうてです、いくところに、もうおかげとゆうものは、そこにはないです。それが神様へ対し奉るところの神恩報謝の奉仕だと分からせて頂くからなんです。だから、それが有り難く出来るのです。
勿論、ここんところをですねえ、教祖様が教えて下さったことを行じるとゆうことだけでもですねえ、おかげが受けられます。これは、全ての事が同じ。例えば信心が無くてですよ、例えば、これが実行でけておる人達も、世間には、本当に繁盛している人達は、皆んなそうなんです。本当にお客さん本位なんです。本当です。もう本当にお客さん本位の店はそれが出来る人は、本当におかげを受けておるです。いわゆる繁盛しておるです。けれども、それは、それ迄のことでしょう。
けどもね、教祖様が教えて下さった事を、行の上に表すとですね、勿論、繁盛も約束されましょうけれどもですね、お徳が受けられるとですよ。神様のお教えを、そのまま仰せ通りに仕りますとゆうことになれば、そこが違うんですね。
ですから、例えば目先は二銭損のようだけれども、数が売れるからその方が得だと、はあ、得ならばそげんしようかと言ったようなものではなくてです、天地の大恩、その事が分からせてもらえば分からせてもらう程、天地の大恩恵に《よ》るものを粗末には出来ない。粗末に出来ないだけじゃない、大事にしなければおられない。大事にしなければおられんだけではない、その御恩恵に対し奉って、応えなければおられない。本当の意味に於いての神恩報謝の生活がでける。他所様が十銭で売りなさるなら、私の方はそうゆう意味に於いても八銭、それも私の方は、他所より二銭安いですよ、などとゆうようなものでなくてです、いわゆる陰で人を助けよとゆうこと。
誰が、認めてくれんでもいいのだ。神様が見ておいでなのだから、聞いておいでなのだから、とゆうことなんです。そこに至る時です、初めて金光様の御信心は素晴らしいなあとゆう体験は、そこからしか生まれてこないです。
皆さんどうでしょうか。田中さんがお夢の中に頂かれたとゆう、合楽でゆう免許皆伝とはどうゆう事だろう〔か〕。徳の自動車を運転出来れる。まあだ、きついのは自分で綱つけて引っぱっとるからきついのだ。びくともせん。(笑)みすみすここに、徳の車を目の前にしながら、中にはいっぱいお米を積みながら、ちょっと不精しとってから、運転免許の切り換えに行かないもんだから、自分で引っぱらにゃならんような結果になっておる。「田中さん、いっちょ本気で合楽の免許を取んなさい」と。「徳の車が運転出来るようなおかげ頂きなさい」と、言うてお話ししたんですけれどね。
私は思うです。最近、私がもう毎日毎日、それこそ声を大にして言っておりますように、必ず和賀心時代が来るて。いや、もう和賀心時代に突入しておる。一九七0年とゆう年は、そうゆう年なんだ。これから、それが何千年、何万年かかって成就の事になるか分からんけれども、それは丁度人間が月の世界に何千年、何億年かかって、初めて月の世界に一歩をしるすことが出来たとゆうようなです、大変な年なのだと。
であるようにです、それより向こうにはね、絶対和賀心時代が来るんだと。もう、和賀心でなければ、地球上に住む人間の一人一人がです。まあ、だから国家は、政府は和賀心を教える時代が来る。いわゆる、心の時代。
そこでです、全ての中からですよ、どのような事の中からでも、どうゆう中からでもです、どうゆう場合であってもです、それが例えば苦しいことであってもです、そこの中から和賀心が頂ける在り方になる以外にはないと、思い込ませて頂いた時に、もうあなたは免許を受けたと同じことです。
おかげ下さい、おかげ下さいもだけれどもです、和賀心に頂けるおかげ。その内容とでも申しましょうか、和賀心が頂ける迄の内容を今日七十九節から頂いたつもりですけれど、皆さんどうだったでしょうか。そうゆう事にならんとです、神様が言わば和らいだ、又賀びの心を与えて下さらん。許されんのです。
そこのところをですね、お互いがひとつ思い込ませて頂く。どんなに、例えば腹の立つ問題であってもです。なる程、人間は生身ですから、叩かれれば痛い。けれどもね、けれども神様がこのようにして、和賀心を求めておって下さるんだと、頂く姿勢。
人間の幸せとゆうのは、この和賀心無しには、絶対に幸せにはなれない。どんなに、コンピュ-タ-時代になろうが、どんなに月の世界に、いわば旅行が出来るような時代になろうが、どうゆう例えば、原子が有り難い意味合いに於いて使われるような時代が来ようが、それではね、もう人間の限界のギリギリのところ迄行って、ようやく例えば気付かせて頂いておるのが、心なのです。
これだけでは、人間が幸せにはなれない。だから、次の時代に来るものは、和賀心時代なんです。その和賀心をです、私どもがそんなら、和賀心和賀心と言うておるだけではいけん。
今日の例えば、七十九節の中から頂きましたような、いわば、私どもが在り方にならせて頂いて、いよいよ天地の大恩を分からせてもろうて、その大恩に報い奉るとゆうこと、そうゆうおかげの生活の上に表されるようなおかげを受けて、その事が神様のお喜びともなり、それが反映して私どもの心の上に賀びの心ともなり、和の心ともなり、そうゆう信心を目指さしてもらい。
ですから、二銭目先は損のようでも、数がよう余計売れるから、それの方が得じゃと。得だから、そうすると言うのではなくて、やむにやまれん、そうしなければおられない心の状態を目指さして頂くとゆうことが、私は信心だとゆうふうに思います。
どうぞ。